私は、狂言《釣狐》のことを初めて知った時、なんとなく「狐を釣る」という言葉に違和感がありました(私だけ?)

…というのは「釣る」という言葉は、魚を取るときにしか使わないように感じたからです。

実際の狂言の舞台でも、きつね”釣り”の道具として登場するのは、それなりに大掛かりな「罠」です。

狂言で「釣る」という言葉をにはほかに《釣針》という演目があり、これでは西宮のえべっさん(蛭子大神)から欲しいものが釣れる釣り針を授けられ、妻となる女性を釣ろうとする…という話です。江戸時代に出版された読み物としての狂言台本『狂言記』や歌舞伎では、より直接的な《釣女》という演目名になっています。

この《釣針》のほうは「釣り針」を使うので、対象が女性ではありますが、「釣り」という言葉を使用することにあまり違和感はありません。

国語辞典(三省堂『大辞泉』)を引いてみますと、「つる」という動詞には「釣る」以外に「吊る」「攣る」「痙る」の漢字があてられるものが一緒の項目になっており、全体としては「糸などで引っ張られている」状態を示している動詞と理解して良いようです。

使われていく中で意味が拡大していくのが言葉の歴史ですが、「釣る」には「相手を、自分の思うように誘う」「気を引くようなことをちらつかせて、こちらの思うとおりに相手を動かす」意味が含まれていくようになります。「糸を垂らして魚を取る」中に、「エサを用意することで、魚を自分の針先に誘い込む」意味があるからでしょうか。

さて、話を《釣狐》に戻しますと、罠を仕掛けて狐を捕まえることも、エサ(ネズミの油揚げだそうです)を使って、狐を誘い込むことです。だからこそ「狐を釣る」んですね。

…と、当然のことについて、まわりくどい思考をたどる文章になってしまいました。

なお、「きつね釣り」というお座敷遊びが、落語の《親子茶屋》に登場します。実際のお茶屋で遊ばれていた遊びを反映していると思われます。そこで唄われる「釣ろうよ、釣ろうよ、○○を釣ろうよ」という歌は、狂言《釣針》で謡われるものと同じものです。狂言が、昔の流行歌を取り入れて、それが別にお座敷遊びにも取り入れたのでしょうか。

芸能を超えた繋がりが感じられて、なんだか嬉しくなってしまいました。