狂言には、決して善人とはいえない人々も登場します。つい盗みに入ってしまう《盆山》や《連歌盗人》の盗人、《文山立》に登場する山賤などが挙げられると思います。

彼らを善悪で分類するならば、間違いなく「悪人」に入るでしょうが、臆病だったり、家族への情で泣いたりと、どこか憎めない描かれ方をしています。

狂言に登場する「悪人」たちの中でも、最も多く登場するのが「すっぱ」です。今回、善竹十番で上演される《仏師》のほか、《末広かり》《宝の槌》《茶壺》《長光》などに登場します。

「すっぱ」というコトバは現代では聞き慣れませんが、よく「詐欺師」と訳されます。『狂言辞典 語彙編』(東京堂出版、1963年)では「透波」「素破」「水破」の文字が当てられ、「戦国時代の間諜の称から出て、すりやかたりの称」と説明されています。

国語辞典の『大辞泉』(小学館、2012年)には「素っ波抜く(すっぱぬく)」という項目がありました。これは「人の秘密などを不意に明るみに出す」意味で、雑誌などのスクープなどで使われる言葉ですが、「補説」として、「すっぱ(忍びの者)が思いがけない所に立ち入ることからともいう」と説明されています。

戦国時代に作られた、日本語とポルトガル語の辞書である『日葡辞書』には「スッパ」を「欺瞞、または、虚言」、「スッパモノ」を「浮浪者、または、人をだます者、など」と訳されており、このあたりが狂言の「すっぱ」のイメージに近いと感じます。

狂言の「すっぱ」には、忍者としての姿はあまりありませんが、それでも名乗り(自己紹介)の時の、「これは洛中を走りまわる、心も直ぐにないものでござる」の、「走りまわる」あたりに、忍者であった名残り?が感じられるように思っています。

狂言の「すっぱ」は決まって都会人です。人の多く集まるところに現れては、田舎人を言葉巧みにひっかけようとします。また、”言葉巧み”と表現した通り、その手段は言葉のみに頼り、暴力はまず使用しません。《長光》や《茶壺》のように、第三者の仲裁人が出てきても、どこか、言葉だけで乗り切れると思っている節が感じられます。

古く『宇治拾遺物語』などには、手の込んだ詐欺で人をだまそうとする「誑惑法師(おうわくのほうし)」が登場しますが、狂言の「すっぱ」は、その伝統のもとに存在するようです。「誑惑法師」が失敗した時には、周囲の人々の笑いの中に、逃亡してしまうのですが、それが狂言の結末に多い「やるまいぞ、やるまいぞ」という”追い込み”につながっているのではないでしょうか。

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