善竹十番最終公演で演じられる狂言《釣狐》。その前半では、死してもなお祟る狐の執心の恐ろしさを、能にもなっている殺生石(玉藻の前)の故事を引いて言い聞かせます。
この殺生石の故事を、《釣狐》をご覧になる前の事前知識になればいいなと思い、紹介させていただきます。
時は平安時代の後期。鳥羽上皇に仕える女官に玉藻前という、絶世の美女がいました。次第に上皇に寵愛を受けるようになり、ついに契りを結ぶことなります。しかし、それから上皇は病に伏せるようになります。朝廷の医師にも原因が分からず、ただ困惑するばかりでした。
そんな中、陰陽師の安倍泰成が、上皇の病気は玉藻前の仕業と見抜きます。玉藻前の正体は、インドや中国でも美女に化けて王国を傾かせた妖力を持った狐が、今度は日本を襲うために現れた姿だったのです。
泰成が調伏の儀式を始めると、玉藻前は苦しみ始め、美女の姿を捨てて行方をくらませます。しかし、那須野(現在の栃木県那須郡)に隠れ棲んでいることが伝わり、鳥羽上皇は三浦介・上総介の二人の武士に勅命を与え、討伐の軍を起こさせました。
三浦介と上総介は犬を狐に見立てた犬追物を行うことで訓練を行い、準備を整えて、数万騎ともいわれる大群で那須野を囲みます。玉藻前も姿を表して、最後の抵抗を行いますが、矢に貫かれ、ついに殺されてしまうのでした。
しかし、玉藻前は死してなお、巨大な毒石となって、近づく人間や動物等の命を奪いました。そのため近隣の村人はこの毒石を「殺生石」と名付けました。この殺生石は鳥羽上皇の時代から後になってもずっと存在し続け、周囲の村人たちを恐れさせました。
周囲の村人たちがそんな殺生石から開放されるのは、南北朝時代の玄翁上人の登場を待たねばなりませんでした。
殺生石が存在する周囲は、那須湯本温泉としても知られ、現在でも硫化水素や亜硫酸ガスなどの有毒ガスがたえず噴出しており、近づいた鳥獣がガスのために死ぬことがあったようです。それが妖狐・玉藻前の伝説と関連づけられて、「殺生石の伝説」となったのでしょう。
以下は能《殺生石》の終曲部、殺生石の精魂が自らの来歴を語る場面の原文を、観世流のことばから取らせていただきました(ただし読みやすいように一部表記を変えてます)。興味のある方はお読みいただければ幸いです。
ワキ「不思議やなこの石二つに割れ、光の中をよく見れば、野干の形はありながら、さも不思議なる仁体なり
シテ「今は何をか裹むべき、天竺にては斑足太子[1]の塚の神、大唐にては幽王の后褒姒[2]と現じ、我が朝にては鳥羽の院[3]の、玉藻の前とは、なりたるなり。
我王法を傾けんと、仮に優女の形となり、玉体に近づき奉れば、御悩となる。既に御命を取らんと、喜びをなしし処に、安倍の泰成[4]、調伏の祭を始め、壇に五色の幣帛を立て、玉藻に御幣を持たせつつ、肝胆を砕き祈りしかば
地「やがて五体を苦しめて、やがて五体を苦しめて、幣帛をおっ取り飛ぶ空の、雲居を翔り、海山を越えて、この野に隠れ棲む
シテ「その後勅使立って
地「その後勅使立って、三浦の介・上総の介両人に、綸旨をなされつつ、那須野の化生の者を、退治せよとの勅を受けて、野干は犬に似たれば犬にて稽古あるべしとて、百日犬をぞ射たりける、これ犬追物の始めとかや
シテ「両介は狩装束にて
地「両介は狩装束にて、数万騎那須野を取り籠めて、草を分って狩りけるに、身を何と那須野の原に、現れ出でしを狩人の、追っつまくっつさくりにつけて、矢の下に射伏せられて、即時に命を徒らに、那須野の原の露と消えても、なほ執心はこの野に残って、殺生石となって、人を取る事多年なれども、今遭ひ難き、御法を受けて、この後悪事を致す事、あるべからずと御僧に、約束堅き石となって、約束堅き石となって、鬼神の姿は失せにけり
- インドの伝説上の王。父王と牝獅子とが交わって生まれ、足に斑点があったところから名づけられた。塚の神に千人の王の首を求められ、多くの国に攻め込んだという。
- 幽王は中国周王朝12代目の王。褒姒はその后。褒姒を寵愛のあまり、元の后と太子を廃して、元の后の父・申候の反乱を招き、殺された。
また、伝説で褒姒は「笑わない美女」としても有名。幽王はさまざまな方法で笑わせようとしたがいずれもうまくいかなかった。しかし絹を裂く音で僅かに微笑んだことで国中の絹を徴収し裂き、更には烽火(のろし)を用いて諸侯を集結させると褒姒が笑ったことから、しばしば戯れに烽火を用いて諸侯の信頼を失い、烽火を用いても諸侯が集結することはなくなったという。 - 第74代天皇。天皇としてよりも、退位後に上皇・法皇として院政を行ったことで有名。
- 陰陽師。安倍晴明から七代目の子孫。官位は従四位上大蔵少輔。